とても私的な投稿になります。
あまりお店のこととは関係ないので個人的な備忘録として。

商売を始めるにあたり、そして始めた今も
十年以上前に亡くなった祖母をいつも思い出します。

大正生まれの祖母は、商売人の家に生まれた8人兄弟の長女。
両親は酒屋を営んでいたと聞いています。

しかし戦争によって酒屋は全焼。

祖母は福岡市内で福岡大空襲にあったそうです。
私が幼いころ、よくその空襲の話をしてくれていました。

B-29の姿が見えるだけで恐ろしかった。
逃げようにもどう逃げていいかわからない。
焼夷弾で街は火だらけになった。
天神の町は焼け野原だった。

私は幼いながらにも戦争の恐ろしさを感じていました。

祖母は福岡市のど真ん中に住んでいました。


普通は、ばあちゃん家に行くというのは田舎に帰るイメージですが
私は町の中に里帰りしていました。

祖母の家からは、煌びやかなキャバレーが見えていました。

家の前には銭湯がありました。

祖母の家には風呂が無かったことから
泊まりに行くと必ずその銭湯に入っていました。

そこにはいつも体に柄のあるオッちゃんたちがいました。

「坊や、ヨーグルトでも飲むかい」
とよく奢ってもらっていました。

男は大人になったら体に柄を入れるものだと当時は思っていました。

銭湯の裏にはラブホテルもありました。

祖母はそんな場所に住んでいました。

祖母は戦後ほどなくして、私の母を産むのですが
なんと当時では相当珍しかったであろうシングルマザーでした。
(私は、祖父は戦争で亡くなったと伝え聞いてました。嘘だったんです。)

きっと家族の反対やら、周囲の偏見が多かったのだろうと推測します。

母は祖母の下を離れ、柳川市の学校に行っていました。
祖母は一人、福岡の西中洲で水商売をしていました。
母の話によれば、参観日などの学校行事には必ず柳川へ出向いていたそうです。

私は幼い頃に一度、その西中洲の店に行った記憶が薄っすらとあります。
しかし、あまりに幼かったのではっきりと思い出せずにいます…。

祖母はとても優しかったけれど、お金にはかなり厳しかった。
毎回泊まりに行くと天神に連れていってはもらえるのですが
何かを買ってくれるということは本当に無かった。

そんな祖母は
戦後の天神の焼け野原を見て絶望したのだろうか?
と今になってよく考えます。

祖母の気持ちになって思う。
きっと絶望なんてしていられなかったと。

生きるために
生き続けるために
働いて
なんとか稼いで
遠く離れて学校に通う一人娘を必死で育て
女だから、女一人だったからとか
そんな言い訳も捨てていたと。

この今の世の中の、新型コロナによる閉塞感溢れる状況は
あの時祖母が見たであろう、何もない焼け野原と比べれば
まだ人がいて、店があって、家があって。
光に溢れていると私は思う。

絶望なんてない。

生きようとする限りは。